見える化されつづけている 伊藤
貧しくなったと感じる別の側面として、以前と比べると、生活のいろいろがよりお金を必要とするようになった、と感じる。 以前は善意の助け合いだったようなものが、今では有料のサービスにどんどん置き換わっている気がする。 昔の田舎のお葬式は、近所の人が準備をいろいろ助けるものだった。 おじいちゃんの葬式の時だったと思うのだけど、みんなで一緒に食事をするタイミングがあった。唐辛子汁というこのとき初めてみたお吸い物と、ご飯と漬物ぐらいがあるような食事だった気がする。これを作るために、近所のおばさんたちが割烹着を着て集まっていた。 食事会場は隣の家だったような気がする。今度は世話をして、いずれはこっちも世話になる、ぐらいな感覚で具体的な金額の形をとらないゆっくり曖昧な価値交換があったと思うけど、今となっては全て有料サービスで、即支払いが発生するのが常識になったと思う。出産・子育てでも似たようなことを感じる。おかげで田舎的なしがらみから解放されたという面もあれば、とにかく金が必要になるようになったという面もある、という事だと思う。ちょうどお金は価値を見える化したものだ、ということを思い出す。見える化・合理化は始まったらどんどん進めて行きたくなる物で、価値が無いと思っていたものにどんどん価値が見出され、価格設定のしようがないと思えたものに果敢に価格設定がなされて、善意や倫理は有料サービスにとまで言うと、言い過ぎかもしれないけど。いろんな物事が有料サービスになっていく現象は止められないと思う。経済の流れとしては止められないと思う。これに対して線を引いたり誘導したりするのは、政治の役割なのかと気がつく。