資本論2 伊藤

モノ作りに対する充実感は労働者が個人的に感じたければ感じればいい。価値を生むという結果が重要であり、その過程での充実感は副産物みたいなものだ。という考え方は、偏見かもしれないけど資本家の視点から見た労働のイメージだと思う。投入した資本を利益付きで回収するには、労働者にコンスタントに計画通りの価値を生産してもらわなければ困る。属人化した作業にはリスクがあるから、いつでも誰でも交代できるように分業&マニュアル化で回避する。シンプルな理屈として間違っていなくて確かに合理的だけれど、忘れているのは相手は私と同じように一人の人間であるという事実。人間一人一人はいろんな性格趣味趣向を持ちつつ、様々な事情も抱えて育った過程環境も違えば現在の家庭環境も共感が追いつかなようなものだったり。作業日程を組むとして、仮にその個人の色々を考慮に入れた場合、日程を考える作業は不可能なぐらい複雑になる。そこでシンプルに均質な人間が10人いる、その中で作業日程を考える。とすると、複雑だった問題がシンプルなパズルゲームみたいに変化する。簡単に答えが出せるようになる。一般に、見える化・合理化とこれを呼ぶと思うけど、見える化された裏には、考えやすいように切り捨てた、見えない事にしてしまった複雑な個人の色々がある。個人と個人の付き合い、私対あなた、という局面において、こういったディテールを切り捨てることは、倫理的に普通はやらない。でも仕事や労働といった場面では、個人のディテールはごく当然に切り捨てることがある。疎外された労働、はマルクスが資本論や他の著書で使った表現だけど、こういう風にも表現できるんじゃないかと思う。