防人 伊藤
奈良・平安時代の道路がどんな雰囲気で、どれぐらいの車両や人が往来していたのか、よくわかる資料にまだ出会えない。律令国家の形が整い、朝鮮半島の百済まで出兵して唐と戦った白村江の戦いが663年だそうで、どれぐらいの兵力が送られたのかこれも情報に出会えないけど、何万人かが送られたとすると、九州ぐらいまでは歩いて行ったのか、船で行ったのか。白村江の戦いで負けて今度は唐が攻めてくる危険が生じ、九州に防衛拠点が置かれたのが太宰府で、防衛のための兵役が防人なんだそうだけど、防人は京都よりも東の方から招集されたそうで、移動は行きは同行人に連れていかれたそうだけど、帰りは完全に自力で帰らされたらしい。どちらにせよ歩きで?信じられないぐらい過酷。人数はおよそ二千人という情報だけど、そんなぐらいで大陸から攻めてくる唐に対して何ができるのか疑問で何か誤解があるかもしれない。もしかすると、防衛の主体は基本九州の人たちであまりにも負担が大きすぎるため、何かしら手伝ってる感を出すため遠路はるばる招集する枠があったのかも。