価値そのものか媒体か 伊藤

お札は国立印刷局で印刷されて、日本銀行が製造料を払って引き取るそうです。次に、各種金融機関が日本銀行に預けてある預金を引き出して、社会へと流通していくようです。一万円札の製造料はネット検索で色々出ますが17〜22円だそうです。日本銀行にやってくる時点では等価交換してない。もちろん日本銀行では古くなった紙幣を破棄して新しいのと交換する作業も行われているので、ボロ儲けということでもないだろうし、そもそも営利団体ではないと思うが、価値を差し出さずにお金が一方的にやって来る=働かないで給料だけ貰える、というイメージとどう違うのでしょうか。他方、社会では様々な生産活動などで日々価値が生まれているので、価値の生まれる量とフワフワ降ってくるお金が、適度な濃度で社会の中で混ざっていれば問題無いという感じなのでしょうか?と思ったが、少し勘違いしている気がします。「お金そのものに価値がある」と考えていたので、タダでもらえるなんてズルい、となる。例えば、海の人が塩を作ったとする、塩は価値を持っている、山の人が胡桃を持って来て交換する、この時物々交換せず、お互いお金を払って塩を胡桃を買う。この時確かに価値を持っていたのは、塩と胡桃であって、お金は間を取り持った。価値交換を円滑にする潤滑剤のような感じ。潤滑剤だけ持ってても全然嬉しくないはずだけど、お金がいっぱいあると嬉しいのはどうしてなのか?言ってみてびっくりする疑問だ。