計りようのないもの 伊藤

社会に存在する価値に対して投入されるお金の量で物価が決まっているのなら、価値/お金量の相対的な関係でお金自体の価値が決まる。今の社会にどれだけの価値が存在するのか、お金を投入する人はしっかり見極めながら適量をタイミングよく投入するのだろうか。社会の中にある価値、を試算する場合、その社会の範囲はどこまでなのか、すり減っていく価値、膨らんでいく価値、あるのか無いのか分かりにくい価値、こういったものをどう考えるかで評価は大きく変わりそう。もちろん、ちゃんと見える化されいる価値だけに絞ったとしても。また価値を絶対的に表す単位が無い事も、分かりにくさを増長させる。何年何月何日の円で表す、とか基準設定すると何とかなりそうか。たった一品目においてでも、全員が合意できる価値はあるだろうか?普段の生活で買う価値は売り手が価格設定したものばかりで、買う行為はその設定に合意する意思表示になる。合意しかねる場合それを買わない。趣味性の高いものに、多くの人が同じ価値を見出すことはない。生きるのに欠かせない食品、例えばお米でも、価格はピンキリだ。そういう意味で米は十分趣味性が高い。趣味性の無い価値の代表といったら何だろうか。水道代か。こういったことを考えると、社会の中にある価値の総量など全く計りようのないことだと思える。誰かが計ったところで、その内訳に合意できることは恐らく無い。謎の総量に対する濃度も、有って無いようなものと思える。